1965年、ゼネラル石油精製㈱で従業員会をもとに組合を結成した。川崎と堺に製油所があり、とりわけ稼動したばかりの堺はエクソン流の熱効率のいい新鋭(ヒートインテグレート型)製油所は要員不足や事故が続き、安全闘争や要員闘争を取り組んだ。またその当時のベトナム反戦運動などに刺激され、若い組合は活発化した。70年春には川崎支部長が解雇され、その解雇撤回と春闘で火止めストに。当時、「コンビナートの反乱」といわれたが、暴力ガードマンの導入、ロックアウト、組合分裂、分割就労そして製油所の稼動。そういう中で組合は一旦敗北した。
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労働協約が再締結され、その後は話し合いで問題を解決する労使関係できた。2000年を前後し、石油をめぐる環境変化の中で外資のエクソンとモービルは合併し、日本の関係会社であるエッソ、モービル、東燃、ゼネラルは事実上1社に統合された。旧4社が1つになり、さらに、人件費の安いバンコクなどに業務が移管された。そのため本社などの間接部門では毎年のような早期退職募集が続いた。組合は、合併に伴う労働条件の整合化交渉や、早期退職の自由選択・強要させない協定を結ぶことで対処した。
組合は定年退職続きで減り、現在40人。一方で、関連会社の中央石油(出資販売会社)と極東石油(50%EM出資の製油所、五井)に特別支部の組合を有している。争議真っ最中の74年に、川崎製油所へエンジニアとして採用される。翌年に第2組合から当組合に鞍替えしたところ、職場でつるし上げを受け、78年の紛争解決まで仕事を干される。和解後しばらくした87年、組合用務専従として休職となり、ずっと事務局長をしている。すでに22年の長きにわたる専従でいわば労働プロである。定年退職の年齢が近づいている。 |
① 関係会社の組織化。中央石油支部と極東石油工業支部の結成を進めた。
② 売却されそうな関連会社の組合との連携:TT子会社、南西石油、キグナス石油
③ 平和運動として、横須賀港沖で自衛隊潜水艦「なだしお」に衝突された釣り漁船
の船長支援をし、横浜地裁で自衛艦が事故の主因の判決をえることができた(88年)。